きょうの発言 第11回 川尻の今とこれから

川尻公園(熊本市南区)の桜がことしも見ごろになりました。川尻を代表するお寺、大禅()寺の参道から移した木々も花を咲かせ、古城神社を中心に住民の花見の場になっています。

藩政時代「肥後五ヵ町」の一つに数えられた川尻は、水運を活用した生活物資の搬出入が盛んに行われ、町には廻船

(かいせん)問屋や商家、木工、鍛冶屋宿屋が軒を連ねました。地元の方の多く地名を言うときに船頭町鍛冶屋町、店町岡町、横町、()(じょう)小路(しゅうじ)など昔ながら呼びを使うため外から来た方は戸惑われるかもしれません

その川尻では昨年から「歴史を生かした街並みづくり」の取り組みが始まりました。熊本市と地元住民が一緒に、町屋や歴史的建造物、史跡が立ち並ぶ通りの景観を保存しようというものです。さらに、国史跡「熊本藩川尻米蔵跡」は外城蔵2棟の4年がかりの修復工事が始まり、築80年の川尻公会堂も耐震工事に向けて動き出しました。国土交通省も河川改修を進めるなど、歴史と史跡の町・川尻は大きく変貌しようとしています。

地元の郷土史家らでつくる「川尻文化の会」は2年前から、川尻の歴史を分かりやすく説明する歴史本作りを進めてきました。それがこの3月、「ふるさとの歴史 川尻」(125頁、A4版カラー刷り)として完成しました。平均年齢が80歳を超える古老らが手弁当で編んだ「地元の歴史本」をぜひ、学校教育現場などで活用してもらいたいと願っています。

きょうの発言 第10回 伝統的工芸品の振興施設

「もしもし、こちらは川尻町の工芸会館ですが。お間違いないでしょうか」。事務所で1日数回は耳にする電話のやりとりです。熊本市内には2つの工芸館があります。中央区千葉城町の県伝統工芸館と「職人の町」南区川尻にあるくまもと工芸会館です。県伝統工芸館は昭和57(1982)年、くまもと工芸会館は平成3(1991)年に開館した伝統的工芸品振興のための施設で、一つの県に2つもあるのは珍しいといいます。

衰退を続ける伝統工芸品の振興を目的に、国は昭和49(1974)年に「伝統的工芸品産業の振興に関する法律」(伝産法)を制定します。これを受けて全国の自治体は伝統的工芸品の保護と後継者育成の拠点となる施設づくりに取り組みますが、振興施設は織物や窯業など単品目を対象としたものが多く、金工、木工、和紙、竹工、陶芸などを総合的に取り扱っているのは九州では熊本だけです。くまもと工芸会館は来年7月、開館25周年を迎えます。「職人による工芸品づくりの実演が見られ、各種工芸教室があり、体験が毎日できる」という全国でも珍しい施設で、修学旅行の小中学生や観光客が見学や体験を楽しんでいます。この数年はインターネットの普及で、東アジアをはじめ海外から「日本らしさ」を求めてやって来る団体客が目立つようになりました。会館を拠点に活躍する工芸職人は現在71人。熊本市の工芸の将来が、市と会館職員の双肩にかかっています。

きょうの発言 第9回 岐路に立つ伝統的工芸品

観光旅行での楽しみといえば温泉と食事、その土地の手工芸品と相場が決まっています。しかし、手作りの工芸品は今、大きな岐路に立たされています。


 伝統的工芸品には「日常生活に使われ、主な製造工程が手仕事で行われること」「伝統的な原材料と技法を用いてその地域で作られること」などの決まりがあります。ですからその品々には日本古来の風土の香りがあり、職人の手のぬくもりが感じられるのです。

 現在、国の伝統的工芸品は全国で219品目、熊本県では肥後象がん、小代焼、天草陶磁器、山鹿灯とう籠ろうが指定されています。伝統的工芸品の大半は、家族単位の零細作業で維持されてきました。しかし、生活様式の変化や大量生産による「より安く、軽くて丈夫な使い捨て商品」の時代を迎えて販売が低迷。バブル崩壊と消費税導入が追い打ちを掛け、職人の後継者不足と高齢化はいよいよ深刻になっています。40年ほど前に全国で30万人いた国指定伝統的工芸品の職人は、現在7万人を割り込んでしまいました。

 熊本市南区川尻でも、明治8(1875)年の調査では桶類をはじめ柄杓ひしゃく、障子、箪笥たんす、長持ながもち、傘、下駄、筆、鍬くわ、鎌かま、包丁、畳、蝋燭ろうそく、木綿もめん絣がすり、提灯ちょうちん、火鉢ひばちなどが作られていました。しかし、そのほとんどが既に姿を消しました。


 工芸品は作り手と使い手があって成り立ちます。使って始めて工芸品の素晴らしさが味わえるのです。世界に誇る日本の伝的工芸品がこれ以上減らないよう願うばかりです。

きょうの発言 第8回 川尻桶物語

  第2次大戦後の混乱期頃まで、農村などそれぞれの家で味噌みそを造っていました。自家製噌はゆがいた大豆と煮汁、塩、麦麹こうじを混ぜ合わせて造りますが、混ぜ合わせ具合と塩分の量で味が異なり、「田舎味噌」と呼ばれました。味噌造りに欠かせないのが味噌樽たるです。


 川尻地区では、古くから嫁入り道具として、産うぶ湯ゆ桶、手桶、手水ちょうず桶を持たせていましたが、もちろん、味噌樽やすし桶も持って嫁いだことでしょう。

 「花タゴ」に代表される川尻桶は、昔は矢部(現在の山都町)地方からいかだ流しで運んだ木材「サワラ」で作っていました。サワラは湿気が多くあまり熱を通さず、しかも木目が美しいため飯櫃めしびつやすし桶などにも適していたのです。

  桶造りは、側面になる板を荒木取りした後、角度を測るカマや長さが1メートルもある正直しょうじき台だいという長いカンナなどを使って一分いちぶの隙間もなく板と板が吸い付くように削って行きます。14工程すべてが経験に頼る手作業です。

 明治8(1875)年の肥後国郡村誌によると、当時の川尻町には桶屋さんが39軒あったといいます。しかし戦後、花タゴや樽などの木製の生活用品は合成樹脂製品に代わって行きます。廉価で軽くて壊れないという商品の台頭です。以来、伝統の川尻桶は衰退し始め、今は休業を含め2軒だけとなりました。

  くまもと工芸会館の売店からも川尻桶が消え、今は県外から取り寄せたすし桶や現代的な作風の職人が作ったまな板などが並ぶ様子に悲哀を感じます。
 

きょうの発言 第7回 伝統の川尻刃物

 今、欧米で日本の刃物ブームが起きています。刃物と言っても料理用の「和包丁」です。欧米でなぜ和包丁が注目されるのでしょうか?
 

 1月に民放テレビで、米国で和包丁を作るマレイ・カーター氏が紹介されました。カーター氏は、熊本で鍛冶職人の酒本康幸氏に師事し、17代目を許された人で、「日本の鍛冶

(かじ)職人の丁寧な作業とそこから生まれる薄くて強くよく切れる包丁にれ込んだ。機械プレスで作る洋包丁とは比べ物にならない」と語っていました。


 川尻刃物は、室町時代の応仁

(おうにん)年間(1467〜1469)に良質の水を探し求めた薩摩の刀工(なみの)(ひら)行安(ゆきやす)が川尻で刀鍛冶を始めたのが起源とされます。鍛冶職人は包丁のほか(くわ)(かま)(なた)など農具も作り、住み込みの厳しい徒弟制度のもとで技術を磨きました。   


  川尻包丁は、軟鉄の中に

(はがね)を包み込んで鍛錬する割り込みという技法で14段階もの工程があり忍耐と修練、体力を要します。「肥後国郡村誌」によると、明治8(1875)年は川尻に41軒鍛冶屋さんがあったそうですが今では数軒なりました。戦後、大型農機具廉価な刃物台頭したためですんな川尻刃物作り後継者育成を続けている林昭三さんが国の伝統工芸品産業大賞功労賞とくまもと県民文化賞を相次ぎ受賞されました。86歳の今も、23種類の刃物作り汗を流される頑固な鍛冶職人に心から敬意を表したい。

 

きょうの発言 第6回 熊本の清酒造り
 伝統の町川尻(熊本市南区)の正月は、3日の成人式で始まります。年十数回開かれる町の諸会合は、地元の老舗酒造会社「瑞鷹」の赤酒で乾杯するのが“定番”です。
 
 「SAKE」として世界中で親しまれ始めている日本酒の歴史は古く、3世紀末の中国の歴史書・三国志の魏誌東夷伝(ぎしとういでん)に「倭国の酒」として登場します。神社や寺院で造られた濁酒(にごりざけ)や清酒は、江戸時代に入ると蔵元によって商品化され、花見酒、夏越し酒、月見酒、雪見酒と四季の自然を愛でながら酒を楽しむという日本文化を形成して来ました。
 
 熊本の酒を語る時、酒の神様と言われた島根県松江市出身の野白金一氏の話が必ず出ます。他県の酒造り技術に後れを取っていた熊本県の酒造組合は明治42(1909)年、熊本税務監督局(現熊本国税局)鑑定部長だった野白氏を技術顧問に迎え、瑞鷹に清酒醸造の技術開発を行う酒造研究所を作ります。研究所は後に熊本市中央区島崎に移転しますが、ここで吟醸酒に不可欠な清酒酵母(協会9号)が誕生、また県民の誇りとする銘酒香露(こうろ)も生まれたのです。
 
 酒造会社の軒先に、杉玉(すぎたま)がお目見えする新酒の季節を迎えました。瑞鷹では、毎年3月に「酒蔵まつり」が開かれ、昨年は6千人の左党が会場を埋め尽くし堪能しました。しかし、例年救急車が2〜3回は出動するため、今年は「心地よい気分」で川尻を満喫されるよう、お酒好きの方にお願いします。
きょうの発言第5回  「薩州墓」のお寺
きょうの発言第5回 「薩州墓」のお寺

  「川尻十五寺」と言われるほど、熊本市南区の川尻地区には数多くの寺院がありますが、加勢川沿いにある無動山延寿寺(えんじゅじ)は「薩州墓(さっしゅうばか)」で知られています。
明治10(1877)年の西南戦争「田原坂の戦い」では一日に32万発もの銃弾が飛び交い、両軍に多くの犠牲がでました。遺体は北区植木町を中心とした官軍墓地や薩軍墓地に埋葬されています。その史実を伝える「田原坂資料館」は現在、市が4億円超をかけて改築中で、今年11月には戦跡を一望できる展望台を備えた新資料館に生まれ変わります。

  西南戦争での薩軍戦傷者は、兵站(へいたん)基地となった川尻町にも運ばれましたが、亡くなった兵士の仮埋葬を引き受けるお寺はなかなか見つかりませんでした。薩軍不利の戦況をみて、後難を恐れたのです。しかし、延寿寺の第30代住職伝弘応師(でんこうおうし)は「死者を成仏させ、供養をするのは僧の務め」と言って、3月2日より4月4日までに薩軍の戦死者853人を寺領に埋葬しました。延寿では毎年4月第2日曜日に、薩摩、大隅、日向の出身者でつくる「熊本三州会」と地元住民が参列して薩軍戦没者慰霊祭が行われており、今年で100回目を迎えます。
今、「西南戦争の歴史史跡を日本遺産にしよう」という構想が持ち上がっています。田原坂、熊本城、川尻を点でなく面でとらえ、地域活性化や観光振興に生かそうというものです。この構想が構想で終わることの無いように願わずにはおられない。
きょうの発言第4回 西南戦争の兵站基地

第4回「西南戦争の兵站基地」
 〜平成27年1月28日 熊本日日新聞夕刊掲載〜




 明治10(1877)年の西南戦争での「田原坂の戦い」はあまりにも有名ですが、この時、熊本城まで10キロほど南に位置する川尻町が薩軍の兵站(へいたん)基地(軍の後方司令部・軍備補給基地)となり、また薩軍負傷者の救護と戦死者の収容に当たったことはあまり良く知られていません。

 北上する薩軍は花岡山に台場を造り、熊本城の新政府軍を砲撃。城を包囲して、多くの死傷者を出した「段山(だにやま)の戦い」が始まり、高瀬、木葉、吉次峠、田原坂の戦闘へと展開していきます。




 この時、薩軍は川尻町に本陣を置き、兵站基地としました。鹿児島から届いた弾薬、食糧は川尻で配分され、一方では熊本城攻撃や田原坂方面での戦いで負傷した薩軍兵士が次々と運び込まれていたのです。川尻や周辺の村で薩軍負傷兵を収容したお寺や大家は119ヵ所に上ったと、「川尻町史」は伝えています。田原坂の戦い後に設立された博愛社が日本赤十字社の前身とされていますが、川尻では激戦のさなかに町を挙げての救護が行なわれたのです。


 西南戦争の時焼失した熊本城の天守閣や本丸御殿、また藤崎宮はその後復元、修復されて今は当時の様子をうかがい知ることが出来ません。しかし、川尻町に残る薩軍本陣跡、軍議を行った泰養寺、戦死した853人の薩軍兵を埋葬した延寿寺などは、140年近く経った現在も「日本最後の内戦があった」という史実を私たちに語りかけてくれます。


      
次回は「薩州墓」のお寺を掲載いたします。

きょうの発言第3回 川尻は史跡の宝庫
第3回 「川尻は史跡の宝庫」〜平成27年1月21日 熊本日日新聞夕刊掲載分〜


 
 熊本市南区川尻町の建物の多くは町屋造りです。町屋は商家ともいわれ、玄関に当たる間口は狭く、奥行きの長いのが特徴で「うなぎの寝床」とも称されています。天保3(1832)年の川尻町地図には、御茶屋、奉行所を中心に米蔵や武士の役宅のほか、お寺や数多くの町屋が描かれています。町屋造りは車社会が到来すると大きな問題に直面します。駐車場の不足です。しかしこのことが、川尻を訪れる人は歩いて散策するという”効果”も生んでいます。

 川尻は史跡の宝庫です。国史跡に指定された「熊本藩川尻米蔵跡」は、年貢米を保管した外(と)城蔵(じょうぐら)跡、年貢米や生活物資を運んだ船着き場跡、藩の軍港だった御船手渡し場跡の三つで構成され、藩政時代の繁栄を今に伝えています。川尻四つ角から米蔵跡に至る「瑞鷹通り」には市の景観重要建造物や景観形成建造物に指定された邸宅や酒蔵が並び、中世にタイムスリップしたかのようです。さらに、旧薩摩街道沿いには参勤交代の折、薩摩藩主や相良藩主が宿泊したという迎賓館跡、藩の御触(おふ)れを掲示した高札場(こうさつば)跡、西南戦争で薩軍が本陣を置いた屋敷などが集積。河尻神宮や大慈寺などに代表される寺社仏閣、地蔵尊は数えきれません。




 史跡巡りに来られる方を、地元の人を中心にした熊本市南部地域歴史研究会(南史会)と川尻文化の会の会員さんたちが、ボランティアで案内なさっており、大変頭が下がります。
    
 次回は「西南戦争の兵站基地」を掲載いたします。
   
      

 
きょうの発言第2回 水運のまち 川尻

   第2回「水運を生かした町〜平成27年1月14日熊本日日新聞夕刊掲載〜



 
  古くは川尻の津と呼ばれた熊本市南区の川尻町は、朝鮮国や明国との交易があった港町でした。川尻の菓子屋さん達で作る「開懐世利(かわせり)六菓匠」の名は、明時代の中国の地理学者が1561年に書いた「日本図纂(ずさん)」に、当時の河尻が「開懐世利」と紹介されていることに由来します。

 細川藩政になると川尻は肥後五カ町に指定され藩の軍港、貿易港として、また職人町として繁栄を極めいきます。町奉行所を始め、造船や船の修理を行う御作事所(おさくじじょ)、水軍の御船手(おふなて)、出入りの廻船などを臨検する津方(つかた)会所(かいしょ)などが設置されます。そして、近隣の町村から20万俵(約1万トン)の年貢米がここに集められました。年貢米の一部は、川や内陸水路といわれる運河利用して熊本城へ、大半のお米は廻船で大阪(当時は大坂)中の島にあった細川藩米蔵へ送られていたのです。
 
  私が働いているくまもと工芸会館前の県道の電柱には「ここは海抜4メートルです」と記されています。川尻は交通、運搬に大河のみならず、水路を作り発展した町です。九州山地の木材を筏(いかだ)流しで運んだ緑川、精霊流しの伝統を今に伝える加勢川、そして天明新川、無田川、裏無田川などいくつもの川が町を支えてきたのです。
 
  好天の週末、川尻には多くの方々が訪れる。散策、ジョギング、国史跡の見学、そして加勢川下りを楽しむ人たちです。川とともに発展してきた川尻の悠久の歴史を楽しまれる人々を見ると私もつい顔がほころびます。
  次回は「川尻は史跡の宝庫」です。(熊本日日新聞 夕刊 今日の発言 平成27年1月21日掲載分)   

 

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