藩政時代「肥後五ヵ町」の一つに数えられた川尻は、水運を活用した生活物資の搬出入が盛んに行われ、町には廻船
問屋や商家、木工、鍛冶屋、宿屋が軒を連ねました。地元の方の多くは、地名を言うときに船頭町や鍛冶屋町、店町、岡町、横町、外城、小路などと昔ながらの呼び名を使うため、外から来た方は戸惑われるかもしれません。その川尻では昨年から「歴史を生かした街並みづくり」の取り組みが始まりました。熊本市と地元住民が一緒に、町屋や歴史的建造物、史跡が立ち並ぶ通りの景観を保存しようというものです。さらに、国史跡「熊本藩川尻米蔵跡」は外城蔵2棟の4年がかりの修復工事が始まり、築80年の川尻公会堂も耐震工事に向けて動き出しました。国土交通省も河川改修を進めるなど、歴史と史跡の町・川尻は大きく変貌しようとしています。
地元の郷土史家らでつくる「川尻文化の会」は2年前から、川尻の歴史を分かりやすく説明する歴史本作りを進めてきました。それがこの3月、「ふるさとの歴史 川尻」(125頁、A4版カラー刷り)として完成しました。平均年齢が80歳を超える古老らが手弁当で編んだ「地元の歴史本」をぜひ、学校教育現場などで活用してもらいたいと願っています。
]]>衰退を続ける伝統工芸品の振興を目的に、国は昭和49(1974)年に「伝統的工芸品産業の振興に関する法律」(伝産法)を制定します。これを受けて全国の自治体は伝統的工芸品の保護と後継者育成の拠点となる施設づくりに取り組みますが、振興施設は織物や窯業など単品目を対象としたものが多く、金工、木工、和紙、竹工、陶芸などを総合的に取り扱っているのは九州では熊本だけです。くまもと工芸会館は来年7月、開館25周年を迎えます。「職人による工芸品づくりの実演が見られ、各種工芸教室があり、体験が毎日できる」という全国でも珍しい施設で、修学旅行の小中学生や観光客が見学や体験を楽しんでいます。この数年はインターネットの普及で、東アジアをはじめ海外から「日本らしさ」を求めてやって来る団体客が目立つようになりました。会館を拠点に活躍する工芸職人は現在71人。熊本市の工芸の将来が、市と会館職員の双肩にかかっています。
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伝統的工芸品には「日常生活に使われ、主な製造工程が手仕事で行われること」「伝統的な原材料と技法を用いてその地域で作られること」などの決まりがあります。ですからその品々には日本古来の風土の香りがあり、職人の手のぬくもりが感じられるのです。
現在、国の伝統的工芸品は全国で219品目、熊本県では肥後象がん、小代焼、天草陶磁器、山鹿灯とう籠ろうが指定されています。伝統的工芸品の大半は、家族単位の零細作業で維持されてきました。しかし、生活様式の変化や大量生産による「より安く、軽くて丈夫な使い捨て商品」の時代を迎えて販売が低迷。バブル崩壊と消費税導入が追い打ちを掛け、職人の後継者不足と高齢化はいよいよ深刻になっています。40年ほど前に全国で30万人いた国指定伝統的工芸品の職人は、現在7万人を割り込んでしまいました。
熊本市南区川尻でも、明治8(1875)年の調査では桶類をはじめ柄杓ひしゃく、障子、箪笥たんす、長持ながもち、傘、下駄、筆、鍬くわ、鎌かま、包丁、畳、蝋燭ろうそく、木綿もめん絣がすり、提灯ちょうちん、火鉢ひばちなどが作られていました。しかし、そのほとんどが既に姿を消しました。
工芸品は作り手と使い手があって成り立ちます。使って始めて工芸品の素晴らしさが味わえるのです。世界に誇る日本の伝的工芸品がこれ以上減らないよう願うばかりです。
川尻地区では、古くから嫁入り道具として、産うぶ湯ゆ桶、手桶、手水ちょうず桶を持たせていましたが、もちろん、味噌樽やすし桶も持って嫁いだことでしょう。
「花タゴ」に代表される川尻桶は、昔は矢部(現在の山都町)地方からいかだ流しで運んだ木材「サワラ」で作っていました。サワラは湿気が多くあまり熱を通さず、しかも木目が美しいため飯櫃めしびつやすし桶などにも適していたのです。
桶造りは、側面になる板を荒木取りした後、角度を測るカマや長さが1メートルもある正直しょうじき台だいという長いカンナなどを使って一分いちぶの隙間もなく板と板が吸い付くように削って行きます。14工程すべてが経験に頼る手作業です。
明治8(1875)年の肥後国郡村誌によると、当時の川尻町には桶屋さんが39軒あったといいます。しかし戦後、花タゴや樽などの木製の生活用品は合成樹脂製品に代わって行きます。廉価で軽くて壊れないという商品の台頭です。以来、伝統の川尻桶は衰退し始め、今は休業を含め2軒だけとなりました。
くまもと工芸会館の売店からも川尻桶が消え、今は県外から取り寄せたすし桶や現代的な作風の職人が作ったまな板などが並ぶ様子に悲哀を感じます。
1月に民放テレビで、米国で和包丁を作るマレイ・カーター氏が紹介されました。カーター氏は、熊本で鍛冶職人の酒本康幸氏に師事し、17代目を許された人で、「日本の鍛冶
職人の丁寧な作業と、そこから生まれる薄くて強く、よく切れる包丁にほれ込んだ。機械プレスで作る洋包丁とは比べ物にならない」と語っていました。
川尻刃物は、室町時代の応仁
川尻包丁は、軟鉄の中に鋼
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西南戦争の時焼失した熊本城の天守閣や本丸御殿、また藤崎宮はその後復元、修復されて今は当時の様子をうかがい知ることが出来ません。しかし、川尻町に残る薩軍本陣跡、軍議を行った泰養寺、戦死した853人の薩軍兵を埋葬した延寿寺などは、140年近く経った現在も「日本最後の内戦があった」という史実を私たちに語りかけてくれます。
次回は「薩州墓」のお寺を掲載いたします。
次回の今日の発言は「水運を生かした町」を掲載させていただきます(熊本日日新聞社 平成27年1月14日夕刊掲載分)