きょうの発言 第6回 熊本の清酒造り
 伝統の町川尻(熊本市南区)の正月は、3日の成人式で始まります。年十数回開かれる町の諸会合は、地元の老舗酒造会社「瑞鷹」の赤酒で乾杯するのが“定番”です。
 
 「SAKE」として世界中で親しまれ始めている日本酒の歴史は古く、3世紀末の中国の歴史書・三国志の魏誌東夷伝(ぎしとういでん)に「倭国の酒」として登場します。神社や寺院で造られた濁酒(にごりざけ)や清酒は、江戸時代に入ると蔵元によって商品化され、花見酒、夏越し酒、月見酒、雪見酒と四季の自然を愛でながら酒を楽しむという日本文化を形成して来ました。
 
 熊本の酒を語る時、酒の神様と言われた島根県松江市出身の野白金一氏の話が必ず出ます。他県の酒造り技術に後れを取っていた熊本県の酒造組合は明治42(1909)年、熊本税務監督局(現熊本国税局)鑑定部長だった野白氏を技術顧問に迎え、瑞鷹に清酒醸造の技術開発を行う酒造研究所を作ります。研究所は後に熊本市中央区島崎に移転しますが、ここで吟醸酒に不可欠な清酒酵母(協会9号)が誕生、また県民の誇りとする銘酒香露(こうろ)も生まれたのです。
 
 酒造会社の軒先に、杉玉(すぎたま)がお目見えする新酒の季節を迎えました。瑞鷹では、毎年3月に「酒蔵まつり」が開かれ、昨年は6千人の左党が会場を埋め尽くし堪能しました。しかし、例年救急車が2〜3回は出動するため、今年は「心地よい気分」で川尻を満喫されるよう、お酒好きの方にお願いします。
きょうの発言第5回  「薩州墓」のお寺
きょうの発言第5回 「薩州墓」のお寺

  「川尻十五寺」と言われるほど、熊本市南区の川尻地区には数多くの寺院がありますが、加勢川沿いにある無動山延寿寺(えんじゅじ)は「薩州墓(さっしゅうばか)」で知られています。
明治10(1877)年の西南戦争「田原坂の戦い」では一日に32万発もの銃弾が飛び交い、両軍に多くの犠牲がでました。遺体は北区植木町を中心とした官軍墓地や薩軍墓地に埋葬されています。その史実を伝える「田原坂資料館」は現在、市が4億円超をかけて改築中で、今年11月には戦跡を一望できる展望台を備えた新資料館に生まれ変わります。

  西南戦争での薩軍戦傷者は、兵站(へいたん)基地となった川尻町にも運ばれましたが、亡くなった兵士の仮埋葬を引き受けるお寺はなかなか見つかりませんでした。薩軍不利の戦況をみて、後難を恐れたのです。しかし、延寿寺の第30代住職伝弘応師(でんこうおうし)は「死者を成仏させ、供養をするのは僧の務め」と言って、3月2日より4月4日までに薩軍の戦死者853人を寺領に埋葬しました。延寿では毎年4月第2日曜日に、薩摩、大隅、日向の出身者でつくる「熊本三州会」と地元住民が参列して薩軍戦没者慰霊祭が行われており、今年で100回目を迎えます。
今、「西南戦争の歴史史跡を日本遺産にしよう」という構想が持ち上がっています。田原坂、熊本城、川尻を点でなく面でとらえ、地域活性化や観光振興に生かそうというものです。この構想が構想で終わることの無いように願わずにはおられない。
きょうの発言第4回 西南戦争の兵站基地

第4回「西南戦争の兵站基地」
 〜平成27年1月28日 熊本日日新聞夕刊掲載〜




 明治10(1877)年の西南戦争での「田原坂の戦い」はあまりにも有名ですが、この時、熊本城まで10キロほど南に位置する川尻町が薩軍の兵站(へいたん)基地(軍の後方司令部・軍備補給基地)となり、また薩軍負傷者の救護と戦死者の収容に当たったことはあまり良く知られていません。

 北上する薩軍は花岡山に台場を造り、熊本城の新政府軍を砲撃。城を包囲して、多くの死傷者を出した「段山(だにやま)の戦い」が始まり、高瀬、木葉、吉次峠、田原坂の戦闘へと展開していきます。




 この時、薩軍は川尻町に本陣を置き、兵站基地としました。鹿児島から届いた弾薬、食糧は川尻で配分され、一方では熊本城攻撃や田原坂方面での戦いで負傷した薩軍兵士が次々と運び込まれていたのです。川尻や周辺の村で薩軍負傷兵を収容したお寺や大家は119ヵ所に上ったと、「川尻町史」は伝えています。田原坂の戦い後に設立された博愛社が日本赤十字社の前身とされていますが、川尻では激戦のさなかに町を挙げての救護が行なわれたのです。


 西南戦争の時焼失した熊本城の天守閣や本丸御殿、また藤崎宮はその後復元、修復されて今は当時の様子をうかがい知ることが出来ません。しかし、川尻町に残る薩軍本陣跡、軍議を行った泰養寺、戦死した853人の薩軍兵を埋葬した延寿寺などは、140年近く経った現在も「日本最後の内戦があった」という史実を私たちに語りかけてくれます。


      
次回は「薩州墓」のお寺を掲載いたします。

きょうの発言第3回 川尻は史跡の宝庫
第3回 「川尻は史跡の宝庫」〜平成27年1月21日 熊本日日新聞夕刊掲載分〜


 
 熊本市南区川尻町の建物の多くは町屋造りです。町屋は商家ともいわれ、玄関に当たる間口は狭く、奥行きの長いのが特徴で「うなぎの寝床」とも称されています。天保3(1832)年の川尻町地図には、御茶屋、奉行所を中心に米蔵や武士の役宅のほか、お寺や数多くの町屋が描かれています。町屋造りは車社会が到来すると大きな問題に直面します。駐車場の不足です。しかしこのことが、川尻を訪れる人は歩いて散策するという”効果”も生んでいます。

 川尻は史跡の宝庫です。国史跡に指定された「熊本藩川尻米蔵跡」は、年貢米を保管した外(と)城蔵(じょうぐら)跡、年貢米や生活物資を運んだ船着き場跡、藩の軍港だった御船手渡し場跡の三つで構成され、藩政時代の繁栄を今に伝えています。川尻四つ角から米蔵跡に至る「瑞鷹通り」には市の景観重要建造物や景観形成建造物に指定された邸宅や酒蔵が並び、中世にタイムスリップしたかのようです。さらに、旧薩摩街道沿いには参勤交代の折、薩摩藩主や相良藩主が宿泊したという迎賓館跡、藩の御触(おふ)れを掲示した高札場(こうさつば)跡、西南戦争で薩軍が本陣を置いた屋敷などが集積。河尻神宮や大慈寺などに代表される寺社仏閣、地蔵尊は数えきれません。




 史跡巡りに来られる方を、地元の人を中心にした熊本市南部地域歴史研究会(南史会)と川尻文化の会の会員さんたちが、ボランティアで案内なさっており、大変頭が下がります。
    
 次回は「西南戦争の兵站基地」を掲載いたします。
   
      

 
きょうの発言第2回 水運のまち 川尻

   第2回「水運を生かした町〜平成27年1月14日熊本日日新聞夕刊掲載〜



 
  古くは川尻の津と呼ばれた熊本市南区の川尻町は、朝鮮国や明国との交易があった港町でした。川尻の菓子屋さん達で作る「開懐世利(かわせり)六菓匠」の名は、明時代の中国の地理学者が1561年に書いた「日本図纂(ずさん)」に、当時の河尻が「開懐世利」と紹介されていることに由来します。

 細川藩政になると川尻は肥後五カ町に指定され藩の軍港、貿易港として、また職人町として繁栄を極めいきます。町奉行所を始め、造船や船の修理を行う御作事所(おさくじじょ)、水軍の御船手(おふなて)、出入りの廻船などを臨検する津方(つかた)会所(かいしょ)などが設置されます。そして、近隣の町村から20万俵(約1万トン)の年貢米がここに集められました。年貢米の一部は、川や内陸水路といわれる運河利用して熊本城へ、大半のお米は廻船で大阪(当時は大坂)中の島にあった細川藩米蔵へ送られていたのです。
 
  私が働いているくまもと工芸会館前の県道の電柱には「ここは海抜4メートルです」と記されています。川尻は交通、運搬に大河のみならず、水路を作り発展した町です。九州山地の木材を筏(いかだ)流しで運んだ緑川、精霊流しの伝統を今に伝える加勢川、そして天明新川、無田川、裏無田川などいくつもの川が町を支えてきたのです。
 
  好天の週末、川尻には多くの方々が訪れる。散策、ジョギング、国史跡の見学、そして加勢川下りを楽しむ人たちです。川とともに発展してきた川尻の悠久の歴史を楽しまれる人々を見ると私もつい顔がほころびます。
  次回は「川尻は史跡の宝庫」です。(熊本日日新聞 夕刊 今日の発言 平成27年1月21日掲載分)   

 

CALENDAR
SMTWTFS
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031   
<< May 2017 >>
ENTRY(latest 5)
ARCHIVES
CATEGORY
PROFILE
MOBILE
qrcode
LINK
無料ブログ作成サービス JUGEM

(C) 2017 ブログ JUGEM Some Rights Reserved.